朝妻筑摩について〜古代の湊の字、湖底に水没した街〜@米原市朝妻筑摩
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近江なる筑摩の祭とくせなん つれなき人の鍋のかず見む
自分につれない女性の鍋の数を見てやろう。恨みがましい歌が「不貞を戒める祭り」の流布に一役買ったようだが、俗説という。
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最近のわたし
お出かけ大好き。セレッソ大阪サポ、好きな選手は清武弘嗣。なんでも「少なく、小さく、軽く」が身上で生活をシンプルにすることが趣味。シンプルにするために汗をかく”戦うミニマリスト”。Apple社の製品を愛す林檎信者にしてマイクロソフトの製品で仕事、マーク・ザッカーバーグの信奉者、Google、Amazonも大好き。つまりGAFAMの犬。「ソフトバンクと楽天のCMはウルサイ」と思っていたが、楽天系のサービスを使うことに目覚め楽天経済圏へ移住。その他株式投資、節税、ポイ活が趣味。
<サラリーマンのテーゼ>経済的自由の大きさ・融通性(リベラル)=収入の大きさ=(給与支給総額+その外の所得+資産運用益)ー社会的負担(税・社会保険)ー支出最適化 について日々考える。 ブログジャンル
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2021年 08月 06日
★滋賀県観光情報 朝妻湊跡
朝妻湊は古代から東海・北陸地方の人の行き来や荷物の運搬など、湖上交通の要港として発展してきました。歴史上でも秀吉が京の大仏殿建立の際、尾張や美濃から木材を運搬し、木曽義仲の後続部隊の出陣時にも朝妻湊を経て戦地に向かうなど、重要な役割を果たしてきました。しかし江戸時代に入り彦根藩主、井伊氏が米原湊を御用港として保護するのを境に、それまで行なわれていた湖上交通は制限され、港のにぎやかさは影をひそめました。今では朝妻湊跡の石碑、港内に敷き詰められた石畳が、当時を偲ぶものとして残っています。 現地の状況 滋賀県教育委員会の資料には現在の中島神社が朝妻城の跡であるとし、その遺構は残っていないとされているが、数百メートル北にある朝妻神社の境内には鳥居横に幅7~8m、深さ1mの見事な空堀が約20mにわたり残されている。また、神社の北側及び西側の竹藪の中には、土塁も確認できる。果たして朝妻神社の遺構が朝妻城のものかどうか・・・・。 城郭の歴史 朝妻城は朝妻湊を押さえ、また朝妻湊から中世の八日市場としてとして栄えた箕浦を経て中山道からに通じる朝妻街道をも押さえ、水陸交通の要衝に位置している。天文年間(1532~1555)には新庄蔵人が居城したとされ、太尾城,磯山城,佐和山城等と共に江北の浅井氏の支城として機能した。 週刊まちぶら 朝妻筑摩かいわいを歩く 【1200年続く祭り 主役は鍋/なぜかぶる 仮設様々】 滑稽(こっけい)な言葉としぐさで笑いを誘う狂言師といえども、舞台に出た途端に笑われることはめったにない。が、格好を見た瞬間、客席から「プププッ」。何しろ頭に巨大な鍋を載せているのだから。 井伊直弼が生涯に一作だけ書いた能の台本「筑摩江(つくまえ)」に鍋を被った女性の行列が登場する。契った男性の数だけ鍋を頭に載せ、数を偽ると神罰が下る祭りだと縁起も語られる。一昨年初めて舞台化され、女性役を演じた狂言師の茂山千之丞さん(85)は「祭りの主役は鍋。能のためになるべく大きい道具をつくった」。 女性に貞節を説く祭りが今も行われていると聴き、筑摩神社(米原市朝妻筑摩)を訪ねた。その名も鍋冠祭。日本三奇祭の一つとされ、毎年5月3日に渡御などの儀式がある。 約1200年の歴史を重ねる由緒ある祭りだ。しかし、地元で郷土史を研究する北村助男さん(80)は「歌に詠まれて有名になった半面、鍋を被る意味が誤解されてしまった」と複雑そう。 平安時代の歌物語「伊勢物語」にこんな古歌がある。 近江なる筑摩の祭とくせなん つれなき人の鍋のかず見む 自分につれない女性の鍋の数を見てやろう。恨みがましい歌が「不貞を戒める祭り」の流布に一役買ったようだが、俗説という。 なぜ、鍋を被るのか。 北村さんらが編纂(へんさん)した「筑摩字誌」は神社の祭神が御食津大神(みけつのおおかみ)など食べ物を司(つかさど)る神であることに着目。この地に朝廷の食料庫があった史実や伝承、記録を踏まえ、特産品だった鍋を神にささげた「鍋特産物説」、料理したお供えを頭上に載せて神前に運んだ「神饌(しんせん)物頭上運搬説」、頭に被り力を得ようとした「鍋呪力説」などの仮説を唱える。 いま鍋を被るのは少女たち。いつの頃からか、地元の筑摩地区に住む数え年8歳前後の8人が被るのが習わしになった。一閑張りの鍋、緑色の狩衣、緋(ひ)色の袴(はかま)といういでたちで祭りに臨む。 母の藤居優子さん(39)と親子2代で鍋冠人を務める真生ちゃん(9)。鍋を被るのは今年で5度目だ。少子化で適齢期の子がおらず、同じ子が何度も参加せざるを得ない。最初は参拝の作法を自宅で何度も練習し、はき慣れない木靴に戸惑ったが、すっかりベテラン。「みんなで歩くのが楽しい」と渡御を心待ちにする。(桝井政則) 【e顔出会った。】 〈内湖から出土 石器展示〉 筑摩神社の東側、入江地区はかつて周囲約8キロの内湖だった。第2次世界大戦中の1944年、食糧増産を目的に干拓事業が始まり、4年がかりで約256ヘクタールの農地が生み出された。今も年間1200トンの米が実る干拓地の水を管理するのが入江干拓土地改良区だ。2階に干拓資料館があり、内湖から出土した石器や縄文式土器などを展示している。「他府県からも見学に来られます」と技師の中川直之さん(28)は話す。 米原市域には中山道の番場宿・醒ヶ井宿と北国街道の米原宿の三つの宿場があった。今回訪ねたのは北国街道沿いの旧米原村米原宿である。江戸期を通じて彦根藩領であった。 江戸初期までは20軒に満たない寒村であったこの地に、彦根藩の命をうけた北村源十郎が慶長8年(1603)に、現在のJR米原駅辺りに米原湊を開削した。従来は朝妻湊が利用されていたが、彦根藩の後押しもあり、米原湊は松原湊・長浜湊と共に彦根三湊の一つとして発展した。 米原湊の発展を支えたのは、慶長16年(1611)藩の許可を受けて中山道の馬場宿から米原に通じる道路が開かれ、また翌年には内湖から琵琶湖への通行路として磯川が開設されたことにより大いに発展したのである。それは中山道の荷物を米原湊が扱ったことによる。柏原宿の記録によると美濃大垣や烏江(養老町)を経て伊勢桑名方面へ運ばれる商荷が多かったという。 京都から大津へ、また、北陸から塩津・今津へ運ばれた荷物は湖上を米原に運ばれ、中山道を陸路、馬場・醒ヶ井・柏原・関ヶ原、大垣、烏江などを経て、再び川船で東に運ばれた。 宝永元年(1704)のもので、寛保2年(1742)に書写された米原絵図によると、北国街道沿いに町並が続き、湊は北国街道の西方湖岸にあり、船入り堀の周辺には蔵が建ち並んでいる。米原は宿場町より湊町として発展した町である。高札場から北に進むと街道が分岐し、左側は北国街道、右側は中山道馬場宿に向う道である。家並みの南端部に広い構えの家が描かれ、源十郎と書かれていて北村源十郎家である。 元禄8年(1695)の記録によると人数879人とある。 明治22年に湖東鉄道(現JR東海道本線)が開通し、米原駅は北陸線との分岐駅をして重要な位置を占め、鉄道の町として発展していった。 町並は現JR米原駅の東側で旧北国街道に沿って展開している。米原駅の案内放送が風に乗って聞こえてくるほど近い位置に町並が広がっている。伝統的な様式の町屋が並ぶ景観は旧宿場町当時の面影を色濃く残している。中でも軒の低い中2階建ての連なる町並は圧巻であった。宿の北端「旅館かめや」の角には弘化3年(1846)建立の道標が建ち、それには「左北陸道 右中山道」と刻まれていた。 ★中日新聞 2007年10月16日 大地震で地滑りし水没 米原沖湖底の「尚江千軒遺跡」 県立大(彦根市)の林博通教授(歴史学)らは、米原市朝妻筑摩沖の琵琶湖の底にある「尚江千軒(なおえせんげん)遺跡」が、大地震による地滑りで水没したものであると分かったと発表した。京都大、大阪市立大と合同で行った地盤工学調査で判明した。琵琶湖周辺での大地震に備えた現代の防災対策にもつながるとして注目されている。 同遺跡は幅約二キロ、沖合約九百メートルにわたり位置する。これまでの潜水調査で、人為的に打ち込んだとみられるくいや石群、七世紀ごろの須恵器の破片などを発見。陸地だった場所が水没した可能性が高く、林教授は地元の歴史書や口伝に残る「水没村」との関連について研究を進めてきた。 また湖岸の筑摩神社境内では、京都大の釜井俊孝教授(応用地質学)が人工地震の伝わり方を測定。地下三-六メートルに広がる軟弱な地盤が、湖に向かって斜めに落ち込んでいることが分かり、地滑り説の根拠になった。 こう配の緩い場所で大規模な地滑りの痕跡がみられることから、原因は震度6強以上の地震である可能性が高いという。 林教授は「今後は未調査の遺構を発掘し、水没した年代や原因をさらに深く調べたい」としたうえで「今後、地震で同様の地滑りが発生する可能性があることも分かった。新たな防災対策の検討が必要では」と指摘した。 同遺跡は、県内に約九十ある湖底遺跡の一つ。一九二〇年代に書かれた歴史書「近江国坂田郡志」には「尚江」という湖岸の集落が一三二五(正中二)年の大地震で湖に沈んだ伝承が記されているが、集落跡そのものは確認されていない。 地震の地滑りで集落が水没 米原市尚江千軒遺跡調査の県立大発表 米原市朝妻筑摩の琵琶湖沿岸湖底にある尚江千軒遺跡を調査している滋賀県立大学の人間文化学部考古学研究室は十一日、同遺跡集落が「大地震に伴う地滑りで湖底に没したものと判断される」と発表した。水没年代は特定できなかったものの、七世紀ごろから一五六七年ごろまでに発生した大地震で水没したとみられ、研究成果は今後、琵琶湖周辺で大地震が発生した場合の防災対策に活かせるとしている。 今年八月に京都大学防災研究所が湖岸陸地側の筑摩神社境内で行った地盤の構造調査「表面波探査」と、大阪市立大学大学院理学研究科が同沖合いで行った湖底地盤調査「音波探査」の結果、県立大考古学研究室の現地調査、資料調査を総合して結論付けたもので、「湖底で見つかった約八十個の石群と土坑二基は本来陸地にあり、大地震などに伴う地盤沈下か液状化に伴う横滑りなどで一気に湖底に没した可能性が高い」とした。 湖岸陸地の地表に振動を加え、地盤の構造を調べる表面波探査では、地下三~六㍍に非常に軟弱な地盤があり、琵琶湖側に傾いて広がっていることがわかった。また湖底の音波探査では、地滑りがあったことを示す湖底地形が確認された。 筑摩神社に伝わる絵図には神社の南北に「神立」「西邑」の村名と湖岸の大鳥居が描かれているが、湖中に没したとの伝承がある。「近江国坂田郡志」にも「朝妻筑摩にはかつて尚江と称する大村があったが、正中二年(一三二五)の大地震のため全部落が湖中に没した」などの記述があり、県立大など三大学が合同で調査を進めていた。
by sazanami226
| 2021-08-06 15:17
| 近江散歩
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