ワールドカップ2010 本田圭祐選手はいいねぇ。
|
毎日jp 特集・本田圭佑
▼本田流:サッカー・南アW杯2010
86年、大小の町工場や運輸倉庫が並ぶ大阪府摂津市に生まれ。Jリーグ開幕の翌年、3学年上の兄弘幸さん(26)と地元の少年サッカークラブに入る。親が離婚。父司さん(50)は野菜を扱う商社に転職し、夜通し動く市場の担当になった。近くに住む祖父母宅から学校に通った。練習後に祖父母宅に帰って10分で夕食を済ませ、2人で淀川沿いの工場のグラウンドへ。街灯の明かりの下、ひたすら一対一でボールを奪い合った。「負けず嫌いの弟が挑んでははね返され、最後は泣きながら帰路に就く。」それがいつもの光景だった。帰り道で、風呂場で、寝室で、今度は夢を競い合った。「W杯で優勝する」「レアル・マドリードの10番になる」。大きな夢が、寂しさを埋めた。
練習を見て才能を感じた司さんは兄弟に言い聞かせた。「一番になれ。二番はベッタと一緒や」
原点は少年時代にある。父の司さん(50)は商社の仕事でアジア各地を飛び回り、海外の交渉相手の我の強さを実感していた。「貧しい国の人は必死や。家に帰ればテレビや暖かい布団があるお前は、同じ力なら100%負ける」帰国する度に本田選手に伝えた。
通っていた少年サッカークラブのタイ遠征に貯金をかき集めて参加すると、帰国後に司さんに言った。「椅子を後ろに引いてくれるホテルで食事した。バラックで暮らす人も見た」海外で目の当たりにした現実だ。
08年に移籍したオランダ。レストランでは大声でウエーターを呼ばないと無視された。少年時代、見聞きした情景を思い起こした。「前に出てなんぼ。コミュニケーションを取らないと、認めてもらえない」。思いを口にして、自分や周囲を変えていく。本田選手にとって、当然の選択だった。
高校の恩師、河崎護さん(50)は語る。「はっきり物は言うが、人を攻撃するわけじゃない。彼の発言はチームでも貴重だった」
兄弘幸さん(26)と司さんは口をそろえる。「僕らから見たら、まだ『言葉選んでるな』って」「もっとバンバン言えいう感じです」
今年3月のバーレーン戦で久しぶりに本田、中村両選手が並び立ち、2人のパス交換から先制点が生まれた。「まだ、俊さんからのパスが少ない。僕の引き出しに大きな原因がある」。試合後、自らにも辛口で締めた。
1週間前、電話口でいら立つ息子を、父の司さん(50)が諭した。「お前は外国人。ずば抜けてないと使ってもらわれへん」「頑張るわ」厳しい欧州の舞台で続く戦い。
6年前の冬。東京で開かれた高校サッカー選手権の抽選会。星稜主将の本田選手が抽選箱から引いた初戦の対戦相手は、前年ベスト4のシード校、滝川二高(兵庫)だった。チームメートが待つ金沢への帰路、本田選手は監督の河崎護さん(50)に打ち明けた。「すき間から、滝川二高と当たる番号が見えた。『これだ』と思った」
その滝川二高の主将は、現日本代表のエース・岡崎慎司選手だった。全国に知られる強豪。それでも迷わずつかみ上げた。「そんな強いところ……やめてくれよ」。あきれる河崎さんに、本田選手は言った。「最初から強いチームとやりたかった。気持ちが引き締まりますから」。試合は本田選手が2ゴールを挙げ、4-3で勝利。星稜は勢いに乗り、初めてベスト4まで進出した。大舞台での正面突破は、当時から変わらない「本田流」だ。
Jリーグ・名古屋との契約直前にも、河崎さんに打ち明けたことがある。「入れてほしい一文がある」。海外からオファーがあれば本人に伝え、移籍を認めるという内容だった。「高校生が、そこまで言うか」。驚いたが、まなざしは真剣だった。結局、契約書は書き換えられた。視線の先には、常に「世界」があった。
オランダへ移籍し、主将も務めた昨季、36試合で16得点とゴールを量産。「一番になれ」という司さんの教え通り、チームを優勝に導く。地元サポーターの称賛を一身に浴び、兄の弘幸さん(26)に「サッカーでこんなにみんなを幸せにできるとは……」と、かみしめるように言った。
代表発表の10日は口にしなかったW杯への思い。日本が出場を決めた後、弘幸さんには語った。少年時代から変わらないビッグマウスで。「出ることは通過点や。最低ラインにやっと到達した」
本田選手が、僕達を「サッカー」でシアワセにしてくれることを期待しましょう!!