(簡易精米所。お父さんと息子さんがいてます)
ちょうど精米にきた親子(父・息子)がいた。
お父さんと息子さんが、簡易精米所に入る。
しばらくすると、息子さんが精米所の箱から顔を出す。
お父さんが、
「ほら、スズメの分もわけてやれ」
と言った。
息子さんは玄米を一掴みして精米所の周辺にバラマキます。
スズメ大喜び。
玄米祭り開催中とばかりに集まり「チュンチュンチューン」ゆうてます。
まったくかわいらしい。
(玄米祭り開催中)
「スズメの分」というのは、スズメ達が稲につく害虫を食べたから米が実ったということか。
スズメも米作りの参加者だということだろうか。
だから参加報酬玄米一掴み。
人間は必死に生きているかもしれないが、生かされているのかもしれない。
「他力本願」の浄土系仏教では、人間は「生かされている」存在。
他力とは「他人まかせ」ということではなく、感謝と謙虚な気持ちを忘れないということ。
形而上な話はよくわからないけど「おかげさま」という言葉はよくわかる。
お父さんから息子さんへ大事なものかがしっかり伝わっている姿をみて、ほのぼのしました。
またずいぶんと感心しました。
やはり近江は浄土真宗の盛んなところで人間が「生かされている」ということが、宗教以前の人間の感覚として身についている人が多いのではないでしょうか。
近江人、とくに年配の方に、人間として非常に「まろやかな」かたが多いような気がする。
自分の在所や居所のご老人たちとは違う。
大げさにいえば文明によって陶冶されている感じがする。
簡単にいえば野蛮ではない、ということ。
おそらく、学校教育以外の何事かによって、近江のご老人たちは陶冶されているのだと思う。
家での躾、丁稚や見習いとしてヨソに行ったときの躾、そういったもの。
そしてその根底には、真宗の教えがあったのではないかと。
最近ではすっかり標準語的になった「~させていただいている」(例:二割引にてご提供させていただいている)という表現も、もともとは近江商人が用いた言葉らしい。
そしてその表現の根底には真宗の他力本願「生かされている」という考えがあるとのこと。
司馬さんの受け売りなんですがね。
スズメのかわいさと、親子のやりとり、近江人の他力の考え、そんなことを考えながら、感動した。
お金なかったけど、蒲生野にきて、本当にいい休日でした。
(いまだに玄米祭り開催中)