近江は「街道をゆく」シリーズでのべ6巻に登場する。司馬さんの近江及び近江人を非常に愛していたようだ。
以下は「街道をゆく」における近江について記述で僕が納得したり膝を打つ思いがした箇所。
「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠のとびらまで紅殻が塗られて、その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて、こういう漁村が故郷であったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
私はどうにも近江が好きである。下り列車が関ケ原盆地をすぎ、近江の野がひらけてくると、胸の中でシャボン玉が舞いあがってゆくようにうれしくなってしまう。
近江路は春がいい。しかし車窓から見る湖東平野は、冬こそいい。下り列車が美濃に入り、関ヶ原にさしかかると、
吹雪にたたかれる。しかし数分後に近江へのかすかな登り勾配にさしかかれば、吹雪が追ってこなくなる。北近江に
入れば、もう陽が射している。近江の村々の民家のたたずまいも、以前はよかった。
いまはほとんど新建材にかわって失望させられるが、かつては
そのまま茶室になりそうな農家もあった。無名の村寺なども、微妙な屋根のスロープが他の地方とちがっていて、なにか決定的な美の規準をもっているようにおもわれた。
地図を見ると、室町時代以来の都市である日野町がある。予備知識をもたずにその町に入ると、大正時代にまぎれこんだような家並(やなみ)だった。というより、京の中京区を移したようでもある。どの家も木口(きぐち)がよく、街路は閑寂ながら整然としていて、しかもよけいな看板などはなく、品のいい町だった。
大阪を出た列車が山城平野に入るだけですでに土地が隆い。やがて近江平野を過ぎてゆくとき、豊穣で、高々とした台上をゆく気分がある。
叡山という、日本の木造建築史の正統な建造物の一大密集地帯があったため、村大工の技倆や感覚の筋も他とはちがうのだと思わざるをえなかった。
近江人の物腰がいい。近江を語る場合、「近江門徒」という精神的な土壌をはずして論ずることはできない。門徒寺の数も多く、どの村も、真宗寺院特有の大屋根を聖堂のようにかこんで、家々の配置をきめている。この地では、むかしから五十戸ぐらいの門徒でりっぱな寺を維持してきたが、寺の作法と、講でのつきあい、さらには真宗の絶対他力の教義が、近江人のことばづかいや物腰を丁寧にしてきた。
蒲生氏は鎌倉時代からの地頭だったが、租税徴収だけをする地頭ではなく、歴代、よく百姓を介護した。とくに賢秀・氏郷は商人を保護し、このため氏郷が伊勢松坂に移封されてからも日野商人たちはあとを慕って松坂に移った。このことが、伊勢における商業をさかんにした。
戦国期の近江においては武士から、商人になる者も多く、たとえば三井家を興した三井越後守高安なども、日野出身ではないが近江で興り、伊勢に移った松坂木綿を扱ったり酒造業を営み、江戸期、江戸に移って呉服商を営んで大をなした。越後守であったために、家号を三越と称したことは、よく知られている。
金堂という集落があるが、私がまぎれこんだのはその集落だった。歩くうちに、この田園のなかで軒をよせあう集落ぜんぶが、舟板塀をめぐらし、白壁の土蔵をあちこちに配置して、とほうもなく宏壮な大屋敷ばかりであることに驚かされた。建て方からみて、明治期の屋敷が多いかと見られたが、どの家のつくりも成金趣味がかけらもなく、どれもが数寄屋普請の正統をいちぶもはずさず、しかもそれぞれ好もしい個性があった。
金のかけ方に感心したのではない。たがいに他に対してひかえ目で、しかも微妙に瀟洒な建物をたてるというあたり、施主・大工をふくめた近江という地の文化の土壌のふかさに感じ入ったのである。
物腰も、どはずれてひくく、すべて作家という印象から遠かった。ふとこの人が、かつてはもっとも筋目正しい近江系のお店の大旦那だったことを思いだし、鮮やかな人間の景色を見たおもいがした。
芭蕉は漂泊を一代の目的とおもいさだめつつも、各地で仮住いしている。死の四、五年前から近江へのつよい傾斜がはじまり、『奥の細道』の旅をおえたあと、元禄二(一六八九)年、四十六歳の年の暮は、膳所城下で越年した。その翌年、いったん故郷の伊賀に帰ったものの、春にはふたたび近江に出てきて、琵琶湖の南岸、石山の奥の山中の幻住庵に入り、秋までそこを栖家とした。
「行春を近江の人とおしみけり」行く春は近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観のひろやかさや晩春の駘蕩たる気分があらわれ出て来ない。湖水がしきりに蒸発して春霞がたち、湖東の野は菜の花などに彩られつつはるかにひろがり、三方の山脈はすべて遠霞みにけむって視野をさまたげることがない。芭蕉においては、春と近江の人情とがあう。
こまやかで物やわらかく、春の気が凝って人に化ったようでさえある。この句を味わうには「近江」を他の国名に変えてみればわかる。句として成りたたなくなるのである。
たしかに、彦根城は、西国三十余カ国に対して武威を誇る象徴というよりも、むしろ湖畔にあって雅びを感じさせるやさしさを持っている。
家康の「御縄張ノ御指図」の功なのか、あるいは近江の古建築の感覚が反映したのか、そのあたりは推量するよりほかないが、ひるがえって考えてみると、建物も石垣も、この付近の旧佐和山城や佐々木氏(六角氏)の観音寺城など在来の古城郭のものをとりこわして移された。いわば旧建造物をたくみにモザイクしたものであったということを思うと、近江建築の理想的な結晶体といえなくはない。
近江はことばのいい土地で、とくに彦根の町方ことばは、京ことばに近い。むかし、彦根で、老婦人が立話しをしているのを耳にして、音楽のように感じたことがある。
この温暖な風土にくるまれると、ついほのぼのと村居したくなるということであろうか。
私が、近江を好きになってから古い。野や村々、さらには歴史的な建造物だけでなく、無名の建物まで美しいとおもいつづけてきた。
その一郷で傑出した者が出、成功することによって、一族、一郷まねをした、ということである。ただ、たえず大小の傑出者が出、独創的なことをはじめねば、近江商人というぜんたいの興隆現象が持続しない。つまりは、独創者をおさえつけずに、逆にほめそやす気分が、風土としてあったのであろう。
滋賀県は偉大だとおもった。いまの時代、変えようと思えば、うずうずしている。土木資本と土木エネルギーをいつでもひきだすことができる。変えずに堪えていることのほうが、政治的にもむずかしいのである。
戦国のころから一カ国で八十万石の米がとれたといわれ、六十余州のなかでもっとも富んだ地であった。中国人はこういう温暖で湖沼にめぐまれた地のことを「天府」といった。浙江省と江蘇省のことがそうで、この両者が稔れば天下の食糧が足りた、とさえいわれた。日本でいえば、近江こそその天府ということばにふさわしい国だったろう。
滋賀県民のえらさは、まず住民運動のレベルで、合成洗剤を追放し粉石けんを使うということをやったことである。この世論の上に立って、武村知事が通称〝びわこ条例〟とよばれるものをつくり、リンを含む家庭用合成洗剤の使用や販売を禁止した。この間、日本石鹸洗剤工業会による条例阻止のはげしいキャンペーンがあったそうだが、県議会は昭和五十四年十月に成立させた。
びわ湖を訪れたポーランドの調査団に「それこそ愛国運動ですよ」といわれて私はハッとした。(武村正義『水と人間』)
私たちの滋賀県は、びわ湖の悲鳴に真剣に耳を傾けようとしている。びわ湖の水を、もうこれ以上汚さない、できれば少しでももとの碧い湖をとりもどすためにと、行動を起こそうとしている。それは試行錯誤の続く道であることも知っている。(武村正義『水と人間』)
これは市民運動側の文章ではなく、知事の文章である。こういうすばらしい文章を書く人が琵琶湖の守り手であるというただ一点に、希望をつなぐしかない。
琵琶湖の水蒸気と、湖をとりかこむ山々のせいか、夕陽は神戸の一ノ谷に落ちるほどには赤くないが、それでも淡々と絹につつまれたようにものやわらかい。やがて湖水の漣の陰翳が濃くなった。