坂田郡箕浦村について
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息長村は昭和30年に坂田村と合併し近江町となる。
近江町は平成17年に米原市と合併し、現在に至る。
箕浦庄の北部をしめる後鳥羽院御影領は、鎌倉時代には箕浦氏が地頭に補されていたが、箕浦氏が室町時代に京極高氏(道誉)によって柏原(旧山東町)に移封された後、京極氏の被官である「今井氏」の祖がこの地に補せられて住まいし、天野川流域に堀・顔戸・今井・安食・岩脇・若宮、林・寺倉・広田・新庄・井戸村等の庶流を広げ国人領主に成長した。
今井氏は、藤原秀郷の後裔と伝えられ、藤原俊綱(九郎)を祖とする。
応仁の乱では美濃守高遠が京極持清に従って活躍したが、のちに京極氏の内訌に乗じて高延を要し台頭する浅井氏を嫌って、高慶(六角氏が支援)方に付き、享禄元年(1528)に浅井郡に侵攻し内保合戦を戦うも敗れ、領地を失う。
享禄4年(1531)の箕浦合戦では、今井秀信(秀俊)は浅井氏に与し戦ったが、浅井亮政に六角氏への内通の嫌疑を掛けられ、天文2年(1533)に神照寺で自殺に追いやられた。
遺児の定清は一門・家来とともに六角氏に庇護を求め、敏満寺に十余年に亘り籠城を余儀なくされた。
その後、浅井氏を臣従させた京極高広が六角氏との合戦に備え、今井定清を誘い箕浦城に戻したが、浅井氏が戦国大名へと成長すると、やがて浅井氏に従うようになり、元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦では、浅井方として戦ったが敗れて失脚した。
元亀2年(1571)には、浅井方から寝返った堀・樋口氏がこの城に入った。
浅井長政は、これに対し江北十ケ寺の一向一揆勢の力を借りて5千の軍勢で堀秀村の箕浦城を攻撃した。
横山城の木下藤吉郎はこれを知り箕浦へかけつけ、一揆勢を中心とした浅井軍は統率がとれず余儀なく後退し、下長沢やさいかち浜、下坂浜、今浜で衝突をくりかえしたが、わずか5・6百の木下藤吉郎・堀秀村軍に敗れた。
これが箕浦合戦である。
その後箕輪村は湖北の戦国大名浅井氏の家臣であった井戸村氏により治められた。
この井戸村氏の残した文書に箕浦庄内に八日市市場があったと記され、集落中心の八幡神社の地蔵堂付近(箕浦・宝福寺付近)が比定されている。
箕浦の地は、小谷道と朝妻街道の分岐点で交通の要衝で、市場も形成され繁栄していたが、その面影は今は残っていない。
私は現在神奈川県在住ですが、滋賀の旧山東町で生まれ育った者です。さざなみさんのブログすごく懐かしいです!
ぜひ今後も湖北(特に米原市長浜市彦根市)の情報をアップしていただきたいです^ ^
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