山形県立山形南高等学校〜空はコバルト〜
|

充実した三年間を過ごすことができた。
片道二時間超の通学時間で苦労したが、その年の南高で一番長い通学時間だったらしい。
学校は楽しかった。男子のみ在籍で非常に気楽。
南高に強い帰属意識をもっている生徒と先生が多く、南高出身の先生も多く在職していた。
私学のような鮮明なスクールカラーを持っていた。
校訓は「師弟同行」。戦中に旧制山形第二中学校と開校、建設時には教職生徒が共々、もっこ担ぎ、土を盛り上げ、孔を穿ったことに由来する。
教職生徒が共に経験し考え成長するということだろうか。
教職員にも向けられた校訓というのは珍しい。
野球部は、マイクロバスではなくてフル規格の遠征用バスを所有していた。
中の照明はシャンデリア風。私立の野球強豪校のようである。
他校の生徒は驚いていたらしい。
顧問の書道の先生が運転手していた。
寄付を募ったたら瞬く間に集まったとのこと。
同様の理由で立派なホールもある。
ちょっとした町村のホールより立派で、千人以上が収容できた。
設備はおしなべて立派で、当時は近くの山形大学小白川キャンパスよりも立派である、と言われていた。
進学校としての雰囲気、県内レベルでは強豪と思われる部活の応援、放課後に書店やゲームセンター(多分ダメ)、喫茶店やファミレス。活発で前向きな生徒が多かった。
学校全体の雰囲気は非常よく、団結心や母校愛も強い。
馬見ヶ崎川の河原で友達と「芋煮会」をやっていたら、
となりでどんちゃんやってるおじさん達が南高の先輩達だった。
いっしょに世代を超えて肩組んで「南高ぶるーす」唄った。
「学校サボって旭銀座をずんどこずんどこ歩けば 西高のねぇちゃんが横目でガン飛ばす なーにくそ 南高の漢の心意気(中略)西高のねぇちゃんとべんきょやりてぇなー」ってやつ。
勉強もそれなりにやり、親友ともよく遊び、議論した。
議論は難しいことから人生の悩み、どんな異性が好きかなど。
いい青春時代を送ることができた。
たまらなく懐かしい。
人生で1回だけの高校生活を南高で送ったのは大きな幸運だ。
我が子へ進学を薦めたいめたいかと問われれば、是非もナシと答える。
南高に入学してくる生徒は多様だった。公務員の家庭の子息が多かったように覚えているが、自営業や農家の息子達もいた。
姉が山形東高校に在籍していた。
私の父は「東高の保護者会に行くと、セダンの車が多く、保護者の職業は医者、教員、公務員、大きな企業のサラリーマンばかり。南高の保護者会に行くと、軽トラが泊まっている。自営業者も多い。自分としては南高の保護者会のほうが居心地がよい」と言っていた。
生徒個人は南高第一志望で入った者、東高に学力的に届かなかった者、東高の校風を嫌い南高の校風を慕ってきた者、奇跡的に受かった者、東京で育ったが親の転勤や帰郷で山形に来た者、山形市内のナンバースクール中学校上がりの街っこ、北村山郡や最上郡から出てきて山形市内に下宿している者と多様だった。
普段は穏やかなのに野球の応援となると狂気を発する生徒会長。
同級生が受験勉強で苦労しているのに自分だけ推薦をもらってラクすることはできない!とかっこいいコト言って有名私立の推薦けって地元国立に落ちた生徒会長(一浪で合格)。
不良の溜り場だった応援団を硬派で清潔な応援団に代えた応援団長。
プロのスカウトが来る野球部のエース。学園祭の後、テンション上がりまくってネズミの集団自殺よろしく藻の繁茂する緑のプールにダイブした実行委員会達。
大学時代、自作の模造刀を振り回して警察に捕まったことのある現国の先生。
予備校の夏期講習に参加してまで教材、指導法の研究をしていた古典の先生。
江戸時代から続くの山形屈指の大商家の出の数学の先生。
天気や気象の解説ばかりしている倫理政経の先生。
旧姓山形第二中学校第一期生として在学し、陸軍士官に殴打をもって陸士受験を説得されたが節を変えず海兵受験に拘り、教員となり自由と民主主義のすばらしさを熱っぽく説き続けた南高一筋30年、「おれの体にはコバルトブルー(南高のスクールカラー)の血が流れている」と言ったの日本史の先生。
慶応卒で都会的な雰囲気を持ち生徒に紳士となるべき教養と心構えを教えてくれた世界史の先生。
離任時に「Ask not what your 南高 can do for you,ask what you can do for your 南高」と熱く演説した普段クールだった生物の先生(南高ではなく寒河江高校出身だった)。
有名な宝飾店の御曹司だったが家業を継ぐの嫌で高校教師になったオペラを愛する化学の先生。
なぜかレスラーのような体系をしていたロシアンクォーターのまさにおそロシアだった英語の先生。
見事に逆三角形の体系をしたレスラーのような角刈りの体育の先生。
家にテレビがない変人であったが、在校生と卒業生を対象とした美大受験準備の私塾を無償で主催していた美術の先生。
吹奏楽部を率いて県内V10を達成していた音楽の先生。学園ドラマに出てきそうな個性を持った先生・生徒がたくさんいた。
この高校在学中に先生に教えていただき、その役に立った言葉を紹介したい。
曰く「君たちはどだな女の人がいいかということを熱心にしゃべっべず。それもええべ。はいずと同じ熱量でどだな恋愛がいいかということも議論してけろ。どだな相手がいいかばりんねくて、どだな相手と自分の関係がいいかも、ねっつぐねっつぐ考えてもらいだい」と。
けっして借り物の言葉ではない。
借り物の言葉、書籍やテレビで仕入れただけの言葉なら標準語風の言葉で話していただろう。
かつて南高には孫のような年の生徒を前にして、このようなことを衒いもなく、むしろ「ねっつぐ」言える定年前の先生がいた。
先生方の指導や友人達との切磋琢磨によって、現役で大学受かることができた。
個性的で魅力的な同級生や先生に触発され、自分が「いかに生きたいか、どのような大人になりたいか」ということのイメージを持つことができた。
在学時には先生方を「大人ってこんなもんか」と捉えていたが、今先生方と変わらない年齢になって思うのは、当時の先生はかなりレベルが高かったということ。
教科の指導という意味もあるが、人間として青少年に教えを垂れるに足る人々だったと思う。
目指すべき大人の標準と考えてもいい人々が揃っていた。
発せられる言葉や姿勢は青少年にとっては意味のあるものも多かった。
ややクセが強いと思うが、しょうもない大人というのは個性もないものだ。
優柔不断にして安逸を貪り、苟も姑息の計を為すが如き軟骨漢は少なかったように思う。
権威主義的で空虚な先生は生徒たちに「空っぽ」であることを見抜かれ相手にされなくなった。
子供とはいえその人間に実があるか、と言う程度のことは見抜くのだ。いきおい実のない先生は淘汰されることになった。
教材研究や大学入試試験の出題傾向把握、指導法の研究をまともにやっていないような先生の授業は、生徒たちは自主的に自習つまりは内職をしていたし、熱心な先生の授業は、熱心に聴講した。
まさに師弟同行ともいえる緊張関係が存在したのだ。
現国や世界史の先生から薦められたように「若いうちに街場に出て、多様な経験を積み、いろいろな人と出会い、多様な価値観を身に付ける」ことができた。
世界史の先生に憧れて慶応うけたけど落ちた。。。
「自分と相手の関係がいいかもねっつぐねっつぐ考えて」今のヨメと一緒になり、15年を経過した。
いまグーグルマップで南高を激賞している。せめてもの自分なりの「ask what can do for your 南高」への回答。
勉強すればそれなりの大学にいけて、部活も県内強豪校がいくつかあった。
友達と遊んだり無駄な話をするようなお店もいくつかあった。
立地、施設、生徒、先生、校風ともどもすばらしい高校だった。
まさに「若さに誇る眉あげて希望の明星を仰ぎ見る」ことができた三年間だった。
前途は明るく蒼天航路、「空はコバルト」と思える青春だった。
ありがとうございました。
いつか甲子園に野球部が出場し、在校生やほかのOBともに「空はコバルト」「おお九百の」を唄うことを楽しみ待っている。
そんな日がきたら多分泣いちゃうもん、おれ。





