実は京都に「自然」は残ってはいない件について@北野天満宮
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大根だきでおなかがいっぱいになったあと、せっかくなので
北野天満宮も参拝しました。
というより北野天満宮の境内を逍遥です。
京都の魅力を語るときに、よく出てくるのが、
「京都には自然が残っている」
という表現があります。
でも、これは嘘なんです。
京都に自然は残っていません。
「いやいや、人家の庭にも大きな木があるし、東山・北山と山に囲まれているじゃやないか。お寺や神社の境内にしたって、自然が豊富だし・・・」
でもね、この「自然」、残ったんじゃないのですよ。
人間が美的感覚を研ぎ澄まして、「配置」したのです。
京都は日本最初の都市として1200年前に誕生しました。
それ以降、日本人が美的感覚の粋をもって磨き上げるようにして作ったのが京都という街。
いわば、京都盆地全体を作庭したようなものです。
いらないものは徹底的に抜き去り、更地として、そのうえで、人間の、日本人の美的センスにあうように、土を盛り上げ、木々を配置し、道を拓いた。
つまりは自然のものを使いつつも徹底的に人の手を入れたのです。
その営みが1200年に渡って続いている。
自然なんて残りようがないのです。
自然を征服して、飼い馴らしきっている。
つまりは人間の都合のいいように馴致しきった街です。
「日本人は自然を征服するのではなくて、自然と共生しようとする。ヨーロッパ人のように自然と人間を敵対関係とは捉えていない」
昔読んだ日本人論にそんなことが書いてありました。
でも、京都は完全に自然を征服して、再デザインしきっています。
東山三十六峰にしても、掃き清めるように下草を刈り、雑木を切り倒し、植林をしている。
何百年も前から。つまりは京都盆地から見上げたときに、美しいと思えるようにランドスケープを整えている。
北山にいたっては有名な杉材の産地。
絶え間ない杉の植樹によって形成されたのが、我々の知る北山の風景。
建築資材、しかも高級な建築資材の需要の高い都の近くで行う林業には、大規模になら
ざろうえない。
「自然が残っている」
などという、どこかの小さな城下町をあらわすような表現では、京都は語れないわけです。
これは、小さな城下町をさげずむわけではなく、都という、その民族の精華ともいえる場所は、民族の特性の光と影の陰影が鮮烈に出る、ということを言いたいのです。
つまりは、
「日本人とは「自然を自分好みの風景に変えることに熱心な人々なんだ」
ということを思うのです。
つまり日本人の美的感覚は、自然を好むとしても、そのままの荒々しい自然ではなく、人間の手の入った自然を好む人々なんです。
その好みというのが、ヴェルサイユ宮にあるような幾何学的なデザインではなく、もう少し穏やかなものを好むわけです。
ヴェルサイユ宮にある庭のデザインが製図版をつかって、先の硬いペンで描いたようなものであるとすれば、日本人のデザインする庭は、フリーハンドで先の柔らかいBの鉛筆で描いたような自然。
京都の自然は残っているものではなく、磨く上げるようにして作り上げたもの。
人間の営みの所産なんですなぁ。
だから、京都に来て「自然がきれい」と思うときは先人に感謝しないといけない。
美しい自然を「作り上げ」た先人に。
そしてその自然を磨き上げるように守り通してきた先人に。
京都では、「自然」ですら、人間の濃厚な営みの結果なのです。
やはり千年王城です。
そんなことをつらつら考えなら、北野天満宮の境内を逍遥です。
北野天満宮といえば「牛」です。この牛はなんか複雑な模様です。わぁ。
スタンダードな感じの牛も当然います。
牛をなでなで。
かわいいもんです。ウシ。
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