よみがえる土倉鉱山の記憶
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金居原の戸数は現在約80戸。山側の急斜面と杉野川に迫るように建つ集落は、高齢者が目立つ、商店らしい商店もない過疎地である。しかし、かつて同地は鉱山で栄え賑わった時代もあった。その頃の戸数は約170戸だった。
土倉鉱山の選鉱所跡へ至る入り口の付近一帯には、昭和40年3月土倉鉱山が閉山されるまでの間、金居原地区の枝郷「出口土倉 (堀近村)」と呼ばれた集落があった。鉱山事務所、職員寮、医局、映画館、マーケットなどが建ち並び、秋田・岩手・愛媛等の東北や四国地方、大分・宮崎等の九州地方から集まった鉱山労働者たちの坑夫社宅が軒を連ねていた。
昭和24年3月、国鉄バスが木之本~土倉間に開通し、出口土倉がバスの終点であった。その名残であろう、同所にはバスがUターンできるだけの広場がある。また、その近くには、鉱山神社跡があり石灯篭や石垣が残っている。
また、杉野川本流に架かる小さな橋を渡ると山裾に今も住居の土台が残る細長な集落跡が杉林の中に見られる。社宅跡だという。
昭和32年1月には、積雪のため通学できない日窒土倉鉱業所従業員の子弟のために冬季寄宿舎「土倉蛍雪寮」も杉野中学校に開設された。それはヤマが閉山されるまでの昭和40年3月まで続いた。
出口土倉から杉野川沿いに少し上がると、目の前にコンクリート造りの建造物が勇壮な姿で広がって見える。土倉鉱山の選鉱所跡である。しかしこれは、昭和15年に新設された2代目の選鉱所で、最初の選鉱所はさらに奥地の「奥土倉(本土倉)」にあった。
奥土倉には江戸時代中期よりわずかながら人が住みつき炭焼きで生計を営んでいた「土倉村」があったが、明治40年岐阜県安八郡の人が「杉野川にピカピカと光る石を見つけた」のがきっかけで土倉鉱山が開発されて鉱山集落化した。しかし、冬季の度重なる雪害により多くの人が命を落とし、また、狭い谷間のため鉱山の設備拡充が出来なかったことから、昭和15年にすべての設備を出口土倉に新設し、土倉村は廃村となった。当時土倉村には、鉱山施設の他、社宅、共同浴場、分教場、医局、商店、稲荷神社等があったが、今では雑木林の中に選鉱所跡と住居跡の溝と思われるものが見られるだけである。
昭和15年から閉山の昭和40年までの間、金居原地区からも75名ほどの人が土倉鉱山で働いた。主に炭焼き等林業で生計を立てていた金居原の人たちにとって土倉鉱山は唯一の企業であった。
先の吉岡武さんも昭和19年県立伊香農学校(現・伊香高校)を卒業すると、地元の日窒鉱業株式会社土倉鉱業所に就職した。
その頃は戦争真っ只中の時であり、「我等鉱業人ハ資本経営勤労ノ三者一体鉱山一家ノ理想ヲ具現シ以テ皇国鉱業道ニ於ケル新秩序ノ建設ヲ期ス」(日窒鉱業株式会社土倉鉱業所 従業員の栞)として、従業員約500人が軍事に必要な銅の大増産に励んだ時期であった。この頃が土倉鉱山の全盛期でもあった。
当時、日窒の本社(日本窒素肥料株式会社)は、今の朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる北朝鮮にあり、「日窒に入社した者は最初皆北朝鮮の興南にあった本社へ送られた」ということで、滋賀県からは野洲郡野洲町の人と2人、全国からは60人ほどが福岡県の博多に集まって船で北朝鮮へ渡った。
「北朝鮮の興南にはものすごく広いコンビナート工場があった」と吉岡さんが語るとおり、昭和2年から日本窒素肥料株式会社は現・朝鮮咸鏡南道咸興市に大規模化学コンビナートを築いていた。昭和20年8月15日の日本敗戦により、日本占領政策の一環として日窒財閥が解体され、日窒は名称を新日本窒素肥料株式会社と変え、さらに昭和40年にはチッソ株式会社と改称していった。
チッソといえば、水俣工場がメチル水銀を含んだ廃液を海に流し続け水俣病公害を生んだことで有名であるが、土倉鉱山においても、鉱毒を沈殿させた上水を沈殿池から杉野川に放流していたことから、魚も棲まない川として、稲作等への影響を懸念する下流地域住民からは快く思われていなかった。しかし、健康への目立った悪影響もなかったのか、社会的な大問題にまでは至らなかったようである。
「日本の敗戦で北朝鮮の日窒で働いていた仲間60人ほどの内40名が餓死した。私は幸い果樹栽培を得意としたから朝鮮人のリンゴ園を手伝い、地元民からも重宝がられ、『ここで暮らせ』とまで言われて餓死することはなかったが、『国に残る母親と姉が心配だから帰らなくてはならない』と言って、子供を含む20人ほどで北朝鮮からの脱出を決意した」という。吉岡さんらは最初漁船1隻を雇って日本を目指したが、「ここはもう南朝鮮だから」と言って、とある港で降ろされた。しかしそこはまだ北朝鮮だった。だまされたことを知った吉岡さんらは軍事境界線(38度線)を越えるため再び現地の人を雇って今度は山を越えることにした。幼子を伴った山越えは決死の逃避行だったという。なんとか頂上までたどり着き、「ここを下ればアメリカ軍がいるから助けてもらえ」と教えられ、今度はそのとおり米軍に保護され船に乗ることに成功。九州が見えたときは「涙があふれおもわず拝んだ」という。それが昭和21年3月の頃だった。
故郷へ無事帰ることができた吉岡さんは戦後再び日窒土倉鉱業所で測量技師として働いた。掘り進められた坑道の地図を作成したりする仕事だった。そのうち吉岡さんは土倉鉱山労働組合の執行委員としても活躍するようになり、賃上げ等を要求しストライキもした。東京へも行き、「安保反対」のタスキもかけて都内をデモ行進したりしたこともあった。その頃が鉱山で働く者にとって華やかりし頃だったのかもしれない。
しかし、昭和40年代に入ると、石油時代に入り、ヤマが閉山され、同時に木炭の需要も極端に減少し、金居原も急速に過疎化が進んで行った。そして村の若い者たちは働くのに便利な長浜市や高月町方面の街へ出て行くようになった。
昭和15年から同40年までの間、土倉鉱山で働いていた人たちは2006年6月1日現在で、金居原地区75名の内45名が亡くなり、隣村の杉野地区では21名の内12名が、杉本地区・音羽地区・川合地区等においては25名の内9名が亡くなった。
その死亡原因として、吉岡武さんの記憶の中だけでも、坑内事故3名、じん肺約20名となっている。じん肺も最初は、「陽のあたらない坑内作業のため青白くなり不健康になった"よろけ病"」として済まされていたが、昭和28年頃から「けい肺」として問題にされるようになり、木之本町においても「じん肺組合」が結成されるほどだった。
別の日(6月18日)、道を歩いていた金居原のご婦人に土倉鉱山のことを尋ねてみた。昭和2年生まれだというその方は「主人も土倉鉱山で働いていた。掘進作業に従事していたので主人は51歳の時じん肺で亡くなった。遺族に対して"じん肺友の会"というものが出来、年に数回機関誌"労災保険 年金の窓"が発行されて楽しみにしていたが、昨年解散されたのでさみしく思っている。」と語ってくれた。
金居原には、真宗本願寺派光琳寺と真宗大谷派掘近教会の二つの寺がある。それぞれの過去帳には、土倉鉱山で亡くなった人たちの名前等が書き記されているという。残念ながらそれを見せてもらうことは出来なかったが、これも土倉鉱山の歴史を語る貴重な資料であると考える。どこからどういう人が土倉鉱山へ生活の糧を求めて旅稼ぎにきていたか、伺い知ることができるからだ。
例えば、島根県邑智郡石見町の五ヶ村から筑豊地方にあった貝島大之浦炭鉱へ多数が出稼ぎに行って大正6年12月の桐野第2坑のガス爆発でほとんどの人々が一度に亡くなっているが、私はその墓石を訪ねたことがある。そこには、「大正六年十二月二一日九州大野浦炭坑ニテ悲常之為死ス」と刻まれてあり。「非常」と書くところを知ってか知らずか、「悲常」と記しているところに、残された遺族の深い悲しみを感ずるのである。物言わぬ墓石ではあるが、そこに大切な人の歴史を感ずる。
金居原に平成17年新設された金居原浄苑がある。同所の記念碑には「昭和30年頃から日窒鉱業と提携して火葬場を建設、最近まで存続されてきた」とあり、日窒鉱業が地元・金居原と密接にかかわってきたことを伺い知ることが出来る。吉岡さんは、「その頃は、金居原では土葬がほとんどであったが、県外から土倉鉱山へ働きにきて亡くなった人たちは火葬にされていた。だから、金居原にあった火葬場は土倉鉱山のために建てられたようなものだった。お骨はそれぞれの故郷へ帰って行った。」と語る。
また、朝鮮の人たちが土倉鉱山で働かされていたかどうかについて吉岡さんは、「そういう人たちの姿は私は見たこともないし、そういう話も聞いたことがない」と語った。その一方で、「出口土倉に村があった頃、そこに朝鮮人長屋があった」と語る人もいる。
鉱山の社宅跡前に立つと、喜怒哀楽、様々なざわめきが聴こえてくる。ここで暮らしていた人たちはどこへ去って行ったのか。それは私の故郷の三池炭鉱跡にも似ている。三池炭鉱があった町は今、旧産炭地からの脱却に必死であるが、ここ金居原地区の枝郷・奥土倉(土倉村)と出口土倉(堀近村)の集落は廃村となり、山に同化してしまった。しかし、去っては行ったが、特にここで生まれ育った子供たちにとってはここがやっぱり忘れられないふるさとであるはずだ。その記憶の中のヤマの灯だけは決して消してはならない。
懐かしい想い出をお持ちですね。
たしかに金居原は「郷」としてはたいそうすばらしい場所
だと思います。僕の実家も似たような場所にあります。
それでなんとなく懐かしくなってしまいますねー。
夏の金居原は涼しそうですねー